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紙面から

静香金、1度引退決意も05年惨敗で奮起

 渡米前、荒川は1冊の雑誌をしのばせていた。「ハワイ」の旅行ガイド本だった。でも行き先は米西海岸のコネティカット州シムスベリー。「せめて楽しいところに行った気になりたいんです」。昨年2月のことだった。

 練習拠点の米国に行くのは、実は苦痛だった。着いたと同時に、帰国の日を計算していた。早く日本に帰りたい一心だった。03−04年シーズンを最後に引退すると決めていた。だが、04年に世界女王に輝いたことで世界は一変。トリノ五輪への抱負を聞かれ、辞めるに辞められない。母佐知さんからも「もったいない。もっと見たいわ」と言われた。迷いながら続ける苦しみが、1冊のガイド本に救いを求めて表れていた。

 だが、そのまま渡ったモスクワでの世界選手権で、9位と惨敗したことで心は変わった。佐知さんに「いいよ、辞めて」と優しく言われると「ここで辞めるわけにはいかない。もう1年やる」と力強く宣言した。米国ではアパートも借りた。長ければ3カ月も帰国しなかった。自分の意思で、五輪直前にコーチを変え、曲も自ら選んだ。「最後は運だったと言えるくらい、しておきたいんです」。タイトルを失った世界女王は、初めて本気になった。

 山と谷を経験したスケート人生だった。「小学校の時は、ほかの子を押しのけてでも『私が1番になりたい』という子だった」と長野五輪時の長久保裕コーチは振り返る。小学6年のジュニア大会では3回転ルッツを成功させながら「まさか小学生にできるわけがない」と2回転に認定された逸話があるほど。1番がふさわしい天才少女だった。

 だが、中学時代の転校を境に人が変わった。知り合いがおらず、目立つ行為を取りたくないとの思いが、自分を抑えつけた。中学3年間はつねに「私は1番になりたくない」と言い、表彰される学校の朝礼が嫌いだった。その心境のまま迎えた98年長野五輪。長久保コーチは「その時間がなければ、もっと早く世界女王になっていた」。

 02年ソルトレークシティー五輪は村主章枝との最後1枠の争いに敗れた。この経験を経て「大人になった」と佐藤久美子コーチは言う。「一緒に遠征する時でもチケットを手配し、行き先の電話連絡を入れてきたり。細やかなところに気がつくようになった」。悔しさを糧にした。ミスするとすぐにあきらめてしまう性格は消えていった。

 優勝会見で「引退せずに続けてきて良かった。続ける道をつくって下さったすべての方に感謝したい」と頭を下げた。最高の大舞台。荒川がついに1番になった。【今村健人】

[2006/2/25/09:58 紙面から]



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